映画「Samsara サムサラ」レビュー:綺麗事は禁止!この世のリアル全てを浴びる精神の旅
作品情報
タイトル:SAMSARA サムサラ
公開年:2011年
上映時間:102分
監督:ロン・フリック
あらすじ:
25カ国で5年以上にわたって撮影されたSAMSARAは、映画製作者のロン・フリックとバラカのクリエイターであるマーク・マジドソンによる非言語ドキュメンタリーです。 これは、過去40年間に70mmで撮影されたほんの一握りの映画の1つです。 (公式サイト説明文翻訳より)
感想・評価
超エクストリームな自然映像系の映画。
Samsaraとはサンスクリット語に由来した言葉で「輪廻」を意味する。
102分間、ナレーションなし、字幕なし。
一切の言語的な情報を携えず、世界25ヵ国の映像がモンタージュ的に映されていく。
「AWAKEN」「ボヤージュ・オブ・タイム」などのテレンス・マリック節が光る作品たちと広義なコンセプトでは近いのだが、テイストが大きく異なっている。
上述の2作品と比べた際のSAMSARAの特徴は、「容赦のなさ」だ。
「AWAKEN」は生きていることが心から嬉しくなるようなポジティブで神聖な地球上の瞬間たちを捉え、
また「ボヤージュ・オブ・タイム」はより広範な事象を捉えつつも、そこに通底している宇宙・生命の神秘を説く。
いずれの作品も非言語的でプリミティブな、心からの感動を沸き立たせてくれる。
一方でSAMSARAは、生々しいミイラの「死」からスタートし、ジェットコースターのように、あまりにもランダムな「現実」を怒涛の勢いで映し出していく。
その中には、宗教的儀式、神社仏閣、大自然の絶景、親子の愛…のように、神秘的でポジティブな光景も多分に含まれているのだが、
廃墟、都市生活、労働、不良、工場、屠殺、肥満、整形、性消費、ナイトクラブ、刑務所、ギャング、武器、戦傷者…のような、生々しい「現実」も容赦なく映し出す。
とにかく何もかもを全部見せてくる。
全体的な構成としては、前半にポジティブで神秘的な映像が続き・・・
後半、後述する不気味なパフォーマンスのシーンを堺に、一気にジェットコースターは「加速」する。
映像自体もタイムラプスとなり、無慈悲な現実をガンガン映し出していく。
そして終盤、カオスを携えつつ、それを嘆きつつ、神秘に回帰していくように、ふたたび宗教的なシーンが映され、静かに幕がおりていく。
僕が特にグッと来たシークエンスは、僧たちがカラフルな粉を使って曼荼羅を描くシーンだ。
作品前半、非常に繊細な手作業で綺麗で見事な曼荼羅が完成するのだが…
後半、これを一気に崩してしまうシーンが映される。
曼荼羅は最終的に、ひとまとまりの、全ての色が混ざり合ったボウル一杯の砂と帰す。
生と死、創造と破壊、秩序と混沌、不条理でランダムな世界を歩みつづけてきた人類。
善や悪や、愛や憎や、栄光や挫折や、生きていくための原動力を、この世の中に意味を、なんとかして見出そうともがき苦しみ続けている。
が、究極的に、本質的に、そこにあるのは、どうしようもなく圧倒的に、シンプルに、ただ、いまの現実というものだけだ。
一人の人間の目線からみた現実はあまりにもカオスでありアンコントローラブルだが、マクロな視点からみた現実はあまりにも整然としていて圧倒的に美しい。
そして人は、あらゆる意識は、みな、そのマクロな秩序の一端を構成する矮小な成分として、たしかに存在している。
その構造を希望と捉えるか絶望と捉えるかは、自分次第だろう。
感動しようが絶望しようが、その多様性すらをも折り込んで、世界は回りつづける。
このように、SAMSARAはかなり「スパルタ」だ。
ややもすると、気持ちの持っていき方によっては、観ていて気分を害するかもしれない…
僕は「AWAKEN」「ボヤージュ・オブ・タイム」の希望溢れるポジティブな作品の方が好みではあるが、
フシギな思考に没頭させられる度合いでいえばその2作と全く遜色なく、極めて思考に効く。
ので、ナショジオ系の作品が好きな人や、僕のような無類のフシギ思考LOVERはぜひ試してほしい。
おまけ
スーツ姿の男が顔に泥のようなものを塗り重ね踊り狂う不気味なパフォーマンスのシーンについて。
かなり長尺のシークエンスであるが、どのようなメッセージ性があるのかと調べたところReddit民が以下ような解説をしていたので紹介する。
(Reddit→Deepl翻訳)
これは、人類が古来から持つ「原始の仮面」の起源と力(人類の自己認識の宗教的側面から発生する)を説明するものである。 現代人のキャラクターが泥や粘土で顔を覆い、「部族」の声と音楽がサウンドトラックで盛り上がるのを見る。 そして、男は仮面にさらに「解説/定義」を加える。 目の区切り(これは歌舞伎のように「見回す」動作を加えることで強調され、今初めて見ることができる)、口のスリットの拡大(これにより、にやりと笑う歯、赤みでセクシーにする唇)、そして存在と自分の顔を意識することの「官能」が、「髪」の魅力の認識へと拡張されるのである。 そして、髪の毛は覆い隠され、泥は「はげ頭」を形成し、キャラクターは顔の「老化」を認識し、「認識された死」の恐怖が明らかになる--彼は自己破壊的な切除と自己切断によって、この生命の側面を「憎む」ことを模倣するのである。 これは,時間の荒廃と,儚いものに対する人間の恐ろしい反応についてコメントしている.次に、「白髪」、「盲目」、老衰の「角」、「活力を取り戻す」ために加えられる「衣服」(頭巾)、「醜い老い」への衰退を隠すパフォーマンスを見せられ、それに続いて「活力ある顔」を取り戻す試みを模した絶望的で効果のない行動、役に立たない行動、当然失敗に終わります。 その結果、完全に「人工的な自己」が形成される。 この自己には、新しい目や派手な赤い口を持つ、新しい顔が描ける布の第二皮膚がある。 しかし、その行為は、人工物であるがゆえに、おぞましく、絶望的なものに見え続ける。 そしてやがて、「インチキ」の恐ろしい連鎖は止められなくなる。 最初は化粧のつもりで塗った粉が、肉を再生させ、埋めようとする土そのものになってしまうのだ。 それは、より熱狂的で「血まみれ」になり、疲弊し続ける--実存の状態を映し出す。 そして最後に、人はただあきらめ、呆然と絶望的な表情を浮かべるのです。 もちろん、もっと心理学や詩的な表現があるのだが、このことを念頭に置いてもう一度パフォーマンスを見れば、きっとメタファーが明確に見えてくるはずだ。
視聴リンク
採点
この映画の評価は…
★8:これを切り口に映画の話を振れる