青森ねぶた祭りとサイケデリックカルチャーの源泉
コロナで中止されていたねぶた祭りが3年ぶりに実施されるということで、見物してきた。
迫力のある「ねぶた」。
その圧倒的な色彩、リズム、熱狂、エネルギー・・・
数ある日本の伝統的なお祭りのなかでもとびきり非日常的で、意識が高揚する体験だ。
ふと、この感覚、この高揚感はどこから来ているのだろう?
という疑問が湧いてきた。
お祭りは「サイケデリック」だ
お祭りの特別感、没入感、高揚感。
一言では纏められない「あの非日常的な感覚」。
これをうまく表現するために、「サイケデリック」という言葉がある。
「サイケデリック」は、60年代のカウンターカルチャーで生まれた言葉だ。
当時における意識の拡張とは、つまりドラッグに依るものであった。
現在では、広く意識や知覚を変化あるいは拡張させる物事を指している。
そして、この言葉が生まれる遥か太古から、人類は意識の拡張を目指してきた。
つまり、人類は大昔から「サイケデリック」を追求してきたということになる。
「サイケデリック」は日本では馴染みのない言葉だが、
「お祭り」と繋がるもう一つのわかりやすい例を示そう。
僕はナショナルジオグラフィック系のドキュメンタリーや、
このブログでも紹介している「AWAKEN」「SAMSARA」などの映画が大好きだ。
これらの作品を形容するならば、神秘的、哲学的…色々な表現が浮かぶが、
欧米圏の人に言わせれば、ピシャリと一言「psychedelic」なのだ。
そして、これら自然映像系の作品には世界各地の風習やお祭りの映像が多用されている。
※ちなみに向こうの人たちがいう「サイケデリック」は、 たとえば「ディズニーランド」「SF映画」「宗教的体験」「トランス音楽」「絶景」「宇宙」「瞑想」あたりの概念はすべてカバーしている。 なんとなく、語義のイメージが伝わっただろうか。 (※そしてこれらは、このブログの「フシギ」のテーマとも非常に密接だ)
ねぶた祭りが携える「祭り」としてのフォーマット。
夜道に煌めく御輿、太鼓のビート、熱狂的な踊りと掛け声…
これらはまさしく、一体となり、意識を没頭し、変容し、拡張させるためのものだ。
ねぶた祭りに限った話ではない。
日本の、いや、世界のどんなお祭りであっても、必ずそのような性質を携えている。
つまり、土着的な伝統の祭りというものは総じてサイケデリックだといえるのだ。

ねぶたのデザインとサイケデリックアートの近似性
もうひとつ、「お祭り」と「サイケデリック」の奇妙な繋がりを感じるポイントがある。
それは、「ねぶた」のデザインだ。
神輿であるねぶたのデザインが、いわゆる近代の「サイケデリック」なアートと極めて類似性があるのだ。
上記の動画に写っている「青森ねぶた」に加え、以下の「五所川原の立佞武多(たちねぷた)」の写真を見て頂きたい。




「ねぶた祭り」は、当然戦前から歴史がある文化だ。
他方、「サイケデリック」という概念が生まれたのは1960年代の欧米でのことだ。
両者が文化的に交わっているということは、考えづらい。
では、「サイケデリックアート」と定義されているいくつかの作品を紹介しよう。
(サイケデリックアートには様々な流派があるが、ここでは特に似ている「DMT Art」を主にピックアップしている)






※サイケデリックアートとは、つまり「ドラッグによる幻覚を絵に起こしたもの」だ。 もちろん現在このカルチャーの元になったドラッグは違法になっているが、 当時ドラッグの幻覚に由来して生まれた様式が、そのままアートのジャンルとして根付いている。
いかがだろうか。
「ねぶた」と「サイケデリック」のデザインに奇妙な近似性を感じてしまうのは、僕だけだろうか?
アートの源泉、人間の心の奥底について
僕がフシギに思っていることは、つまりこうだ。
- サイケデリックアートに反映された、ドラッグによる幻覚
- 「祭り」に対してのねぶた職人のイメージ
これら全く関係のないはずの二つが、近似している。
それらの源泉はどこなのだろう?
もしかして、人間の心の奥底の、同じ所から出て来ているものなのではないか?と思ったのだ。
ドラッグが起こす幻覚は、摂取した物質が引き起こしていると考えるのが自然だ。
だが、もしドラッグの作用によって、内的な何かが刺激され、活性化しているのだとしたら。
そして活性化しているそのポイントが、人が「祭り」によってトランスする脳の一部と一致しているのだとしたら。
この奇妙な近似性にも、説明がつく気がするのだ。
現代においてドラッグは違法だ。
サイケデリックムーブメントは、歴史による「若気の至り」とも呼ぶべきかもしれない。
だが、後世に数多くのインスピレーションを残したのも事実だ。
ビートルズの楽曲や、スティーブ・ジョブズのものづくりにも影響を与えていることは、広く知られている。
彼らが生み出したものはあまりにも素晴らしい。
けど、それらが「ドラッグに頼ったから出来た」とするのは、人間として非常に寂しい感じがする。
だが、もし、「ドラッグで見えたもの」が「元々人間の中に備わっているもの」なのだとしたら。
ドラッグなんてなくても、人間はすごい力を秘めているんだと、なんだか嬉しい気持ちになれるのだ。
青森ねぶた祭りの熱狂は、そんな想像を掻き立てさせてくれた。